2005年 12月 04日
人のふんどし
今日は、指導している子どもたち(中学3年生)に「料理」をテーマに作文を書いてもらいました。
その中に、以下のような作品がありました。
現代の「がきんこ」の中にあって、こんなに素直に対象と向き合っている子もいるということを知って、心温まる思いをしました。
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私は小学三年生の時に、学校の調理実習でソテーを作った。味の方は野菜が固く、失敗だった。でも、私にとって初の調理だったので、今でもよく覚えている。
この実習を通して学んだことは、私達は動物や植物の命をいただいているという事だった。あたりまえのように言っていた「いただきます」「ごちそうさま」に深い意味があることを知った。この言葉は大切だと私は思う。
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(原文の通りです。手は入れていません)
この作文は、15分で、約200字を書き上げるという、過酷な練習です。
こんなことを、小学三年生のときに実感したということです。
いいお母さんになれるものと、固く・硬く・堅く信ずるものであります。
鈍っていた感覚に強い刺激を受けた感じがしています。
「食べること」がいかに大切で、意味のあることかということを思い知らされた一日でした。
鮟鱇の骨まで凍ててぶち切らる 加藤楸邨(かとうしゅうそん)
鮟鱇(あんこう)
「漢字牧場326」も見てね。
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ひとは食べずには生きていけない。そして食べるためには、食べるものを作らなければならない。狩猟民や採集民にしても、獲物や採集物を、調理もせずに食べるのはまれであろう。調理は、人間性におけるもっとも基礎的な行動であることは疑いない。
が、この調理といういとなみに、奇妙なことが起こっている。独身の人たちにかぎらず、料理をしない人が増えてきたというのは、正確な数字情報は持っていないけれども、コンビニエンス・ストアやデパートの地下の食品売り場、あるいは夜の居酒屋などの風景を見る限り、どうも確かな事実のようである。昼休みともなると、みずから調理したお弁当を開けるひとはさらに少なくなる。ほとんどのひとが社員食堂に行くか、弁当を買いに行く。パンやスナック菓子ですませるひとも少なくない。
作らないということは、食事の調理過程を外部に委託するということだ。調理を家の外へ出すということ、その意味は想像以上に大きいようにおもう。
それとほぼ並行して、病人の世話が病院へと外部化された。出産や死という、人生でもっとものっぴきならない瞬間も家庭の外へと去った。家で母親のうめき声を聞くことも、赤ちゃんの噴き出すような泣き声も聴くことはなくなってしまった。いや、自分の体でさえ、もはやじぶんでコントロールできず、体調がすぐれないときには、すぐに医院にかけこむしまつだ。自己治療、相互治療の能力はほぼ枯渇した。その点で、身体はもはやじぶんのものではない。
ひとは、調理の過程で、じぶんが生きるために他のいのちを破壊せざるをえないということ、そのときその生き物は渾身の力をふりしぼって抗(あらが)うということを、身をもって学んだ。そしてじぶんもまたそういう生き物の一つでしかないということも。そういう体験の場所がいまじわりじわり消えかけている。見えない場所へ隠されつつある。このことがわたしたちの現実感覚にあたえる影響は、けっして少なくないとおもう。
鷲田清一『普通をだれも教えてくれない』より
*(一部省略があります。また、平仮名が多いですが、原文を忠実に再現しています)
by yamagoya333
| 2005-12-04 01:51
| 山小屋日誌