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「やってますかー?!」



 以前、「ある神父さんの思い出」という記事を掲載しました。
 記憶にある方もいらっしゃるかもしれません。

 失礼ながら、私は、その神父さんのお名前を失念しておりました。
 その神父さんは、自分のよき思い出の中だけで存在し続けるものと思っていました。
 今となっては、お名前を思い出すよすがもありませんでした。
 でも、この経験はだれかに語りたいと、いつも思っていました。

 神父さんの記事を書いたのが、2005年2月28日。その後、ハンガリーのワインが手に入ったので、そのことを踏まえて、2005年8月30日にもう一度、記事にしました。

 10月に「さくら工房326」(旧ブログ)に、「ひこいます」さんという方から、その神父さんのお名前が「ホルバート」であること、残念ながら亡くなってしまっているという内容の書き込みがありました。

 その後、その「ひこいます」さんと連絡をとろうと何度も試みましたが、彼のブログはそれ以来、記事の更新がなく現在に到っています。

 インターネットの力とは、すごいものがあると実感しました。
 ネットに記事を掲載しなければ、ホルバート神父さんのお名前を知る機会は なかったかもしれません。(完全には否定はできませんが)

 今回、「団塊世代の活躍セミナー」で、講師を務めることになり、話の草稿を練っておりました。
 その中で、ホルバート神父の話をしようと思ったのです。人前で話すからには、もっと神父さんのことを知りたいと思うようになりました。

 先日、思い切って、津和野カトリック教会へ電話をしました。ロバート神父(帰化名・木村信行神父)が応対してくださいました。今回のセミナーでホルバート神父の話をしたいのだが、いろいろと教えてもらえないだろうかとお願いしました。
 木村神父は、私のあつかましい申し入れに、快く応じてくれました。。

 その後、FAXでいろいろな資料を送ってくださいました。
 その中に、ホルバート神父の写真があったのです。コピーの粗い粒子による肖像ですが、確かにあの神父さんです。「やってますかー」と語りかけてくださっているような、懐かしいお顔です。思わず、涙がこみ上げてきました。

 木村神父の話や資料によるホルバート神父の年譜
   1924年 ハンガリー・ブタペスト生まれ
   1943年 共産政権(旧ソ連)を逃れ、バチカンへ イエズス会入会
   1954年 司祭叙階 
   1955年 来日 以来日本の教会で勤務
   1961年~70年 彦島教会(下関)
             ※この間に「ひこいます」さんとの関係が
   1972年~87年 津和野教会
   1987年3月31日 帰天 

 ホルバート神父は、共産主義下の故国ハンガリーを出国しようと、列車に隠れていましたが、遅れてきた友人のためにその場所を譲りました。しかし、その列車がソ連軍の検閲を受け、逃げ出した人たちは射殺されたそうです。ホルバート神父は別の方法で出国するのですが、友人に場所を譲ったことが皮肉な結果となり、そのことがいつまでもわだかまりとして記憶に残っていたそうです。

 いわゆる亡命者には国籍がありませんから、長い時間をかけて「スペイン国籍」を取得して、日本へ赴いてきたそうです。

 ※ この話を聞いて、私は「ペトロ岐部」という江戸時代に殉教した日本人神父のことを思い出しました。このことは、いつか記事にしたいと思っています。

 私が、教会へ電話をした日の午後2時過ぎに、木村神父から電話がありました。
 私の担当する講座の内容や草稿をFAXで送っていたのを読まれたのでしょう。
 「ホルバート神父の本を送ってあげる。30日に間に合った方がいい。大丈夫、私は山口の図書館へ行けば、読めるから。送る、送ってあげる」
 本はコピーをして送り返すからと言っても、「大丈夫!」の返事でした。
 次の日の朝10時に、速達でホルバート神父の追悼文集「道のりを走り尽くして」が届きました。
 思わず「ホルバート神父が、私に会いに来てくれた」と思いました。
 むさぼるように読み上げました。私の中で、新たなホルバート神父が像を結びました。

 私が「ある神父さんの思い出」という文章を書いたときに、こういう形で帰結するとは想像だにしていませんでした。何か不思議な力を感じています。 
 木村信行神父に心から感謝いたします。

 6月30日は、いつもの自分、等身大の話をしてきます。


       初蝶や吾三十の袖袂     石田 波郷

 (はつちょうや わがさんじゅうの そでたもと)
 *「三十にして立つ」という言葉があるが、自分もその三十歳になった。この春はじめて見る蝶の新鮮な姿のように、わたしもここで新しい決意をして、未来を切り開いてゆこう。無為に過ごした過去を反省してみると、いささかな後悔がわいてくる。(楠本健吉・解説)




 ある神父さんの思い出

 私は、30歳になるのが、嫌でいやでたまりませんでした。何とかならずにすまないものかと、かなりもがきました。(30歳までに、何か「答え」を出しておきたかったのかもしれません)
 30歳を迎える前に、ミニ旅行に出かけました。目的地を決めていたわけではありませんが、萩にあるキリシタン墓地に行き、後に語るキリシタン弾圧のあとを見て回りました。 次にたどり着いたのは、島根県は津和野でした。せっかくだから、乙女峠の聖堂も見て帰ろうと思い、のこのこと出かけていきました。
 当時の自分を振り返りますと、自分自身と対峙していたのではないかと思います。強い信念も持たず、いつも気持ちが揺らぐ自分をもてあましていたように思います。それで、逆境の中でも、強い信仰を貫き、殉教した人たちに自分とは対立する存在を感じていたのかもしれません。(勿論、私はクリスチャンではありません)
 
  乙女峠 マリア聖堂
 津和野駅の西、乙女峠に立つ小さな聖堂。1868年(明治元)新政府はキリスト教を禁じ、長崎県浦上の隠れキリシタン3600人余を全国20ヵ所に流罪とし、拷問により改宗を強制しました。
 このうち153人が乙女峠の光琳寺跡に収容され、36人が殉教しました。彼らの霊を慰めるため、1951年(昭和26)にドイツ人神父ネーベルが建てたのがこの聖堂です。
 水責め、火あぶり、減食、薄氷の張ったひょうたん池につけられるなどの拷問が繰り返される中、安太郎という若者が裸のまま雪の中にある三尺牢に入れられて見せしめにあいます。しかし、この拷問にも耐え、棄教することなく、この地で殉教します。

 マリア聖堂を取り囲むように広場があります。その縁に腰の高さくらいの石垣が積まれています。訪れた人々は思い思いの場所に座って休む人もいれば、楽しそうに話をしている人もいます。私も人のいないところを選んで、石垣に腰を下ろして、ここで殉教した人たちのことをぼんやりと考えておりました。
 そうしているところへ、黒衣をまとった一人の神父さんの坂道を上ってくる姿が遠くに見えました。と、息を整えるでもなく、その広場を歩き始めました。何か目的があるかような歩き方です。「ドシ・ドシ」、黒い革靴の音が規則正しく、自信ありげに聞こえてきます。その黒いかたまりが私を目指していることを確信しました。私の左右にはだれもいません。石垣の後ろには、階段も小道もありません。「????」とうとう、その神父さんが私の前で立ち止まりました。

 西洋人の神父さんです。背丈はあまり高くはありません。丸い顔の中にいたずらっぽい目が微笑んでいます。やおら、黒衣の袖から右手を差し出して、私に握手を求めてきます。ためらっている私を見て、「さあ」とでも言うように右手を少し動かします。観念した私は、神父さんの目を見ながら立ち上がり、右手を差し出しました。神父さんはすかさず私の手を握り、達者な日本語でこう言ったのです。

 「やってますかー」と。
 そして、握り合った手を何度も上下に振るのです。私の返事を促しているかのように。
 「・・・やってませーん」と、間抜けな返事をしてしまいました。
 私のしょぼくれた目を見つめて、
  「やりましょうよ」と、神父。
 「・・・・・・・・・はい」と、私。
 「なにをかんがえていたのですか」
 「ひょうたん池につけられている自分を想像していました」
 「ほう?!」
 「冷たい池の中に足を一歩入れた瞬間に、泣きながら棄教してしまう自分の姿を思い浮かべていました」
 間髪いれず
 「わたしもすてていますよ」
 「・・・・・ホントですかぁー?」
(その反応を確かめるかのように)
 「ええ、だって、しぬのはこわいですから」
 「・・・・・・・・」
 「だいじょうぶですよ、やりましょうよ」
 「・・・・・・・(で、何を)」
 「げんきになりましょうよ、やりましょう!!」
 ずっと、手は握り合ったままでした。

 後で聞いてみると、私がとても悲しそうな様子で、このままだと自殺でもするのではないかと思って、声をかけてくださったそうです。そのころは、自分の行く末をつくづくと考えていました。(そーかー、そんなにへこんでいたのか)
 その神父さんはハンガリーから来られた方で、自分の国のワインがおいしいとさかんに自慢していました。教会にそのワインがあるから、飲みにこいと誘っていいただきましたが、丁重にお断りいたしました。(当時の私は、下戸でございましたので・・・ウソだろう??!・・・う、う、うるさあーい)今の私であれば、「ちょ、ちょっと、ハンガリーまで取りに帰ってくるから・・・」と言わせるほど、飲んでさしあげるのに。

 何か、一方的に元気付けられて帰ってきた私です。失礼ながら、その神父さんのお名前を忘れてしまいました。(とても、私の頭に残るような簡単な名前ではなかったような気がします。もう一度、名乗られても、ああそうだったとはならないほど)
 ほんの一瞬の出会いでしたが、一生心に残る言葉と笑顔をいただきました。
 「一期一会」という言葉が身にしみたできごとでした。
 何か壁にぶつかったときは、「やってますかーー、だいじょうぶですよーー」と、自分に言い聞かせるようにしています。
by yamagoya333 | 2006-06-29 08:14 | 山小屋日誌